展覧会の構成

プロローグ
春信を育んだ時代と初期の作品
春信の活躍する少し前、宝暦期(1751-64)は、紅色と緑程度の簡単な版彩色である紅摺絵べにずりえの時代です。この紅のピンクにも近い、温かみのある色合いにつられるように、浮世絵の主題は徐々に甘美さを増し、若い男女の恋の図、また日常的な家庭の光景や子どもを描いた、優しいまなざしの感じられる作品が多くなります。春信の感性は、そのような時代に育まれ、画風や主題の方向性が決定づけられたのでした。
 この章では、展覧会の導入として、春信を育んだ時代の先行絵師たち、すなわち奥村政信(1686-1764)、石川豊信(1711-85)、鳥居清広(生没年不詳)ど、先行の浮世絵師が残した温和で優美な画風を味わいつつ、希少な春信初期の作品を通して、その画風形成の様子を展観します。
鈴木春信《見立三夕》

鈴木春信《見立三夕》
大判紅摺絵(細判三丁掛) 宝暦(1751-64)末期
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19703

世界で1点しか確認されていない春信初期の作品。まだ色数も少ない紅摺絵ので、夕暮れを詠んだ著名な和歌「三夕」の歌人定家、寂蓮、西行が美人に置き換えられて描かれています。

石川豊信《紅葉を焼いて酒をあたためる若い男女》

石川豊信《紅葉を焼いて酒をあたためる若い男女》
倍細判紅摺絵 宝暦(1751-64)前期
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19676

先輩絵師たちの温和で優美な画風や主題は、春信の作品に大きな影響を与えています。

1
絵暦交換会の流行と錦絵の誕生
錦絵は、明和期(1764-72)のはじめ、武家や裕福な商人の趣味人たちを中心に、私的な摺物である絵暦えごよみの交換会(大小会)が流行したことをきっかけに誕生しました。陰暦では、30日ある大の月と29日の小の月があり、その順番が毎年変化したのですが、大小の月を絵の中にまぎれさせて示した洒落た趣向の摺物が絵暦です。最も流行した明和二年の絵暦でいえば、大の月は「大、二、三、五、六、八、十」、小の月は「小、正、四、七、九、十一、十二」の文字が、あるいは「明和二乙酉」といった文字がどこかに隠されているというわけです。
 趣味人たちがあまり採算など考えず、よりカラフルな美しい絵暦を求めた結果、多色摺木版画技法が飛躍的に発達しました。この趣味人たちの遊びは、まもなく下火になったようですが、版元たちはその美しさに目をつけ、商才を働かせて版木を求め、売買が禁じられていた暦の文字部分や依頼者の名前を削っ て売りに出したのです。その時江戸の誇るべき錦のように美しい絵という意味を込めて冠したのが「東錦絵あずまにしきえ」でした。
鈴木春信《見立三夕》

左:鈴木春信《夕立》
中判摺物 明和2年(1765)絵暦
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19430

洗濯物の模様に「大、二、三、五、六、八、十」と明和2年の大の月が示されています。絵暦制作を依頼した趣味人「伯制工」の署名に比べて、絵師の春信、彫師、摺師の名は小さく書かれています。

石川豊信《紅葉を焼いて酒をあたためる若い男女》

右:鈴木春信《見立孫康》
中判摺物 明和2年(1765)絵暦
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19438

「蛍の光窓の雪」で有名な孫康の故事を題材とした見立絵。遊女が窓辺で雪明かりで手紙を読んでいる姿に置き換えられています。また手紙には明和2年の29日ある小の月が示されています。

2
絵を読む楽しみ
春信の錦絵では、当世風俗を描く作品の中に、古典物語や故事の名場面をひそませ、鑑賞者に絵を読む楽しみを提供している作品が多くあります。このような古典から当世への置き換えを軸に、その解読と妙を楽しむという趣向を持った作品群は、見立絵みたてえまたはやつし絵という用語で呼ばれています。
 春信の見立絵には、主題の原典を示す文字情報が表されることはほとんどないのですが、教養豊かな享受者にとっては、そうであればなおさら読み解くことに楽しさを覚えたのでしょう。
鈴木春信《見立玉虫 屋島の合戦》

鈴木春信《見立玉虫 屋島の合戦》
中判錦絵2枚続のうち左 明和3-4年(1766-67)頃
Bequest of Miss Ellen Starkey Bates, 28.195

屋島の合戦において那須与一が、平家方の官女玉虫の誘いを察し船上の扇を見事射抜いたという物語が原典です。続く右図には恋文を結びつけた玩具の弓を持った若衆が描かれ、男女の恋の図ともなっているのです。

鈴木春信《見立渡辺綱と茨木童子》

鈴木春信《見立渡辺綱と茨木童子》
中判錦絵 明和4年(1767)頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19494

渡辺綱に腕を切り落とされた羅生門の鬼が、腕を取り戻しにやってくるという謡曲「茨木」などで知られる物語が原典です。「いばらきや」の暖簾をかけた店の遊女がつかむ侍の傘には渡辺綱の紋が入っています。

3
江戸の恋人たち
春信の作品には、若い男女を描いた恋の図の名品が多く知られています。振袖を着た若い娘と前髪を残した若い男は、同じように華奢な姿で、年齢でいえば15、6歳といったところでしょう。現実的な生々しさや肉感をことごとく排した男女の姿は、純粋で清々しい初恋のイメージを伝えているようです。
 開幕以来150年余りを経て、武士にも戦の記憶はない安定した都市の幸福に恵まれる中では、男性的な力強さを必要とせず、華奢で優美な表現が好まれたようです。
鈴木春信《桃の小枝を折り取る男女》

鈴木春信《桃の小枝を折り取る男女》
中判錦絵 明和3年(1766)頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19448, 11.19506

桃の枝を折ろうとする若衆と、見返る振袖の娘の目が合い、恋を予感させています。

鈴木春信《寄菊 夜菊を折り取る男女》

鈴木春信《寄菊 夜菊を折り取る男女》
中判錦絵 明和6-7年(1769-70)頃
Nellie Parney Carter Collection—Bequest of Nellie Parney Carter, 34.345 

闇夜にまぎれて菊の花をとろうとする若衆が、灯火を差し掛ける若い娘と目を合わせています。

4
日常を愛おしむ
穏やかな日常、無償の愛情を子どもに注ぐ母親、屈託無く遊ぶ子どもたちの姿など、春信は江戸の人々の日常や子どもたちをよく主題としています。どこにでも見られるさりげない日常が、殊更に絵の主題となり、それを購入する人が多くいたという事実にも、浮世絵の特性を感じずにはいられません。この主題傾向は、その後の浮世絵にも大いに継承されているところです。
 江戸城をのぞむ地で生まれ、整備された水道の水で産湯を浴び、精米された白米を食べ、乳母日傘で大切に育てられるということに、江戸っ子たちは誇りを持っていました。鑑賞者である大人たちは、春信の絵に江戸という都市の恩恵を感じつつ、しみじみと日常の幸福を味わったのでしょう。
鈴木春信《五常 智》

鈴木春信《五常 智》
中判錦絵 明和4年(1767)
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19456

手習いの少女たち。江戸時代は子どもの教育に熱心で、男女問わず識字率は高かったといいます。

鈴木春信《子どもの獅子舞》

鈴木春信《子どもの獅子舞》
中判錦絵 明和4-5年(1767-68)頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19494

お祭りの子どもたち。愛らしく無邪気な様子が鑑賞者を和ませます。

5
江戸の今を描く
春信の錦絵は、比較的裕福で教養ある階層の趣味人の間で流行した絵暦交換会をきっかけに誕生しましたが、明和5年(1767)頃より、当世の興味を直接刺激するような主題を積極的に選ぶようになります。
 特に当時江戸で評判の実在の美人たち、中でも谷中笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」の娘お仙、次いで浅草寺境内の楊枝屋ようじや「本柳屋」の娘お藤は、たびたび春信の錦絵の主人公となりました。
 また江戸名所を人物の背景に描きこむことが多くなるのも、この時期の春信作品の特徴と言えます。江戸のランドマークを背景とした男女の姿は、人々が真に江戸という都市への愛着を持った時代らしい息吹を伝えています。大衆の興味に応じて今の江戸を主題とする春信晩年の方向性は、その後の錦絵の展開に重要な方向性を示しました。
鈴木春信《風流江戸八景 駒形秋月》

鈴木春信《風流江戸八景 駒形秋月》
中判錦絵 明和5年(1768)頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19500

この頃江戸の実際の景色を描き込むことも多くなります。隅田川の駒形堂近くに屋根船が到着したところで、下船する若い芸者に、三味線箱を持った若衆が手を差し伸べています。

鈴木春信《浮世美人寄花 卯花 笠森の婦人》

鈴木春信《浮世美人寄花 卯花 笠森の婦人》
中判錦絵 明和6年(1769)
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19515

江戸で一番の評判娘、笠森稲荷境内の水茶屋鍵屋の看板娘お仙を描いています。飾らず清楚な様子が男たちに人気であったようです。水茶屋の様子とともに鳥居や杉木立た描かれるお仙の図が多く制作されました。

エピローグ
春信を慕う
春信が急逝したのは、明和7年(1770)6月のことでした。明和6、7年頃から春信に倣う画風で錦絵を描いていた浮世絵師たちは、まだまだ春信の美人画を見たいと願う人々の気持ちに応えて、没後数年はその画風を大きく変えることなく描き続けています。当初は春広と名乗っていた礒田湖龍斎(1735~?)、鈴木春重の画名を持ち、また春信の名で偽物を制作していたとも告白している後の司馬江漢(1747-1818)、勝川春章(1743-92)、北尾重政(1739-1820)などがこぞって春信画風を慕い倣う錦絵を描いていたのです。
 この章では、没後もなお春信を慕う浮世絵師たちの追慕の様相を展観します。
喜多川歌麿《おきたとお藤》

喜多川歌麿(? ~1806 )《おきたとお藤》
大判錦絵 寛政5-6年(1793-94)
William Sturgis Bigelow Collection, 11.14282

寛政期(1789-1801)美人画の第一人者は歌麿。その時代に寛政三美人の一人と讃えられた難波屋おきたが、この時代には既婚となり、眉を剃りお歯黒をした、かつて春信時代の評判娘お藤から巻物を授かっています。美の秘訣の伝授といったところでしょうか。

鳥居清経《春信追善》

鳥居清経《春信追善》
中判錦絵 明和7年(1770)頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.20128

「春信追善」のタイトルどおり、春信の死を悼んで制作された作品で、娘たちが、春信の柱絵を見ています。

礒田湖龍斎《やつし源氏 御幸》

礒田湖龍斎《やつし源氏 御幸》
中判錦絵 明和7- 安永1年(1770-72)頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19547

春信の「雪中相合傘」(大英博物館他所蔵)を思わせる作品。当初は「春広」と名乗っていたほど春信に傾倒、のちには春信風から脱却して、安永期(1772-81)には 肉感的な美人スタイルを確立して美人画の第一人者となりました。

鈴木春重(司馬江漢)《庭で夕涼みする男女》<

鈴木春重(司馬江漢)《庭で夕涼みする男女》
中判錦絵 明和7年(1770)頃
William Sturgis Bigelow Collection, 11.19524

署名は「春信画」となっているものの、その書体や、西洋的な遠近法を用いた背景から、鈴木春重、すなわち後の司馬江漢の作と目されます。江漢は随筆『春波楼筆記』の中の「江漢後悔記」において、春信の偽作を手がけたけれども気がつく者はいなかったと告白しています。

  • Photographs © Museum of Fine Arts, Boston
PAGE TOP